洗車
自炊の中にある揚げ物の立ち位置
今宵わたしは、はじめて唐揚げを揚げた。
己の財力と手腕のみを信じ、自力で揚げる唐揚げ。
仕事中に今晩の酒のアテを模索する中、気分が上がって食材を買って、下ごしらえをしてから風呂も浴びて万全の態勢で挑んだ。
話はやや逸れるが、わたしは唐揚げがそんなに好きではない。
語弊を招く言いようだが、ただただテンションが上がらないという話である。
居酒屋ではとりあえず唐揚げ、乃至は唐揚げは外せないっしょ!という意見が過半数であるように感じられるが、わたし自身、その理由もわからないままに唐揚げではテンションが上がらない人生を歩んでいる。
更に話は逸れるが、その昔、わたしのそんな意見を聞いた女性が、ただ唐揚げが得意料理だからという理由で自室に来たことがある。
その女性が色々なコツを教えてくれたが、そのコツは一切覚えていない。
諸々の調味料に漬けている鶏肉は寝かせるのに、あなたの横にわたしを寝かせてくれることは無かった。
だから今宵、その記憶を断つべく、わたしはわたしの力で唐揚げを揚げる。
揚げ物は揚げたてが命。
予定していたもう一品を先に拵えてから、強めの火力で薄めの油を信じてじっくり揚げていく。
が
満を辞して二品揃った晩餐を口にした瞬間
「くそ」
という悔しさとやるせなさが押し寄せた,
中まで火が通っているか不安で鳥の死体をじっくり焼き揚げていたせいで、ピーマンと筍の塩餡掛けはほとんど冷めていた。
最早ピーマンの苦味しか感じない。
こいつはひとまずレンジでなんとか仮死状態を免れたが、
唐揚げ。
鶏肉の安さに20%OFFという優しさを加味しても、手間がかかり過ぎていて達成感が全く感じられない。
あれだけ揚げたのに、中まで火が通っているかも不安になる相乗効果でビールも進まないほどだ。
なるほど。
女性が男性に料理を振る舞う際、メインディッシュの唐揚げを出す前に一品拵えて
「時間かかるからそれ先に食べといて」
というシーンが微かに脳裏に残っているが、それがカップルにせよ家族にせよ、出来る女の一言だったんだなという結論が込み上げ、有象無象の調味料に浸したわたしの唐揚げは最早無味と化した。
唐揚げは金輪際、買って食べることにする。
悠久の時間
唯一の飲み友だちとも言えるたかべーから、新世界への誘いを受けた。
言い方がアレだが、大阪の新世界に飲みに行こうという誘いを受けたということだ。
日程を決めて、新世界の情報を食べログやYouTubeで探し、めぼしい店を選んでいる時間はとても楽しかった。
「のんきや」「ホルモン道場」で一頻り飲み、「千成屋」でミックスジュースを飲む。彼女とのデートプランを考えてるかのような気分。
だってたかべーと飲めるんだから。
どこへ行くかは問題ではない。誰と飲むかが重要であり、行く場所がさらに良いともっと楽しい時間を過ごせるはずだから。
その数日後、予定していた日に仕事が入ったという知らせがたかべーから届く。責めるつもりは毛頭ないし、仕事なら仕方ないが、この数日の期待感を全て覆される思いだった。
こうなると誰と行くかなど本当に問題ではない。
そもそも一人での外出を億劫に思ってしまう性分だが、この期待感をなかったことにすると自分を裏切ることになる。今月誕生日の人のプレゼントを買いに、大手書籍屋へ漫画を買いになど色々理由をつけて、一人で目星をつけていた店に行く決意を固めた。
当日、結論から言うと「のんきや」「ホルモン道場」は休業日だった。
戸惑ったものの似た感じの店がそこかしこにあり、露頭に迷うこともなく、「ふじやま」も「佐兵衛すし」もとても良いお店で満足した。
三度目の正直、「千成屋」でのミックスジュースを楽しみに店に入るも満員で入れず。
新世界には神も仏もいない。
横丁を出たところに玉一という喫茶店があり、ショーウィンドウに置かれたプリンアラモードが目に入った。
子どもを相手にする仕事をしているが、子どもはプリンアラモードが好きだ。LaQで一緒に作ったりする。僕も好きだ。
童心に戻ってプリンアラモードを食べることにした。
店内は落ち着いた雰囲気で客も少ないが、レトロでもありモダンでもある、程良い空気感が漂う。
プリンアラモードとコーヒーを交互に嗜みながら、口内に甘みと苦みの永久機関を楽しんだ。
同行していたはずのたかべーは今ここにいない。
もし一緒にいてたら、もっと楽しかったのかというタラレバの話しは無粋だし、また後日、休業していた店に二人で行こうという余韻がまだ先に続く。
昼から飲んで喫茶店で落ち着ける満足感を噛みしめながら、このブログを書いていたら溶けきってしまったアイスを眺めながら、この悠久の時間に浸っている。
一瞬で、永遠に感じる時間がこれから先たくさんあるならば、それでいい。
善悪のサイクル
久しぶりに新幹線に乗り、祖父母の家へと向かう。
スピーディーなタイムマシンは塩尻へ向かう。
普段電車に乗るときは、音楽聴いてたりスマホをいじってたりと、勝手に忙しなく暇を持て余しているが、たまのこんな日はイヤホンを外してスマホもカバンにしまうと、待合室での人間観察の面白さが身に染みる。
国籍も把握できない、BRAHMANのバンTを着た外人
絶対良いやつ
落ち着きのない子どもに、愛の感じない言葉を浴びせる母親と祖母
この親にしてこの子あり
下の中同士の見た目で、お似合いなカップル
待合室でこれから始まるGWを一番楽しみにしてそうで、一番輝いている
そんな中少し離れて、一席だけ空いているところに老夫婦の奥さんが座る。
すると咄嗟に横の青年が席を進めるが、混雑している待合室の中、老夫婦も申し訳なさそうに躊躇している。
近くの席はすぐに空いた。
青年の親切は誰をも救った。
かと思ったらその青年、今度は赤ちゃんを抱いている女性に席を譲った。
そして近くの席がまた空き、また誰もが救われた。
「情けは人の為ならず」を、数分間で見事に体現するこの青年。
GWに浮かれて気分で席を譲ったのではなく、日頃からこういった親切を心掛けているのだと思う。
たまの親切で偶然近くの席が空いて誰もがハッピーなんだとしたら、幸せを使い果たしてこの後老夫婦か青年のどちらかが死ぬであろうサクセスストーリーが眼に浮かぶ。
日頃から良いことをしてる人は、日頃からコツコツと善徳を積み立てて、その見返りが利息付きで与えられ、気持ちに余裕が出来てまた善徳を積む。
永久機関だ。善人の完成だ。
どこかで自分が変わらないと、悪人は悪人のままだし、ブスはブスのままだ。
人当たりの良さそうな好青年。別に偉人とか英雄じゃなくても、こういった身近な人を尊敬して、自分自身を振り返り生きていってもありなんじゃないかと思った旅だった。
BRAHMANのTシャツ着てた外人は日本語ペラペラだった。
せめて人並みに
ブログが二日連続で更新されたのは、決して暇だからというわけではない。
部屋の片付けをしようと決意して、12時間が経った。
12時間が経った。
自分で二度書いてゾッとするものがあるが、たかだか片付けだったからブログにできるわけで。
例えばこれが、朝食を食べようと決意して12時間が経っているならそれは夜食になってしまうし、徹子の部屋を見ようと決意して12時間が経っているなら君は探偵ナイトスクープを見ることになる。
片付けを決意して何もしなかったわけではない。
自分なりには動いたつもりだ。結果部屋は片付かなかったが。
とりあえずタバコに火をつけiPhoneでSafariを開き「片付け_コツ」と検索をかける。
すると情報が出るわ出るわ。
調べて行くとこれが面白い。
例えば「服」を片付けるコツ。
スティーブ・ジョブズやバラクオバマは、同じ色・系統の服しか持たないという。
その理由に、人間が1日(24時間)で使える決断に費やすエネルギーは決まっており、服を選ぶ時もまたそのエネルギーが浪費されている。
そこに費やすエネルギーを、他の部分に注げるように彼らは数々の服を持たないそうだ。
だから服はたくさん持っていても何も良いことはないから、最低限の服を持つ事を心掛けるべきなのだ。
こんな事皆さん知ってましたか?
僕は知らなかったです。
こうして、また新たなトリビアが生まれて僕の1日は終わりました。
始まっていた3連休
無くしていた物の置き場所を思い出したように久しぶりにログインをすると、今月の閲覧数が3、今日のログイン数が1。自分が忘れていたものを誰が見たのか気になり恥ずかしいやら嬉しいやら。
友人宅から家に戻る途中に、世間はGWに入っており、前日が一日目であったことに気付いた。
一瞬、一日を無駄にした後悔に駆られたが、昨日は仕事をして夜から美味しいものを食べ、楽しい人達と飲み、後悔する理由が見つからなかった。知らぬ間にGWを満喫していたことに気付き、焦りは安堵に変わった。
前日は直接の関わり(例えば幼馴染だとか学校が一緒とか)では無いのに、会えばいつも笑顔で「いてて楽」と口にしてくれる後輩と銭湯に行き、彼の地元で飲んだ。
彼は地元に知り合いがたくさんいて、道行く人と挨拶をしたりして、ここが彼のホームであることを体現している。そんな後輩を持てて、ビジターなのに自分も何か誇らしい。
飲みながら、昔お世話になった教授に言われたことを話した。
「絶望的な状況になっても、必ず誰かに助けらる」
言われた時はピンとこなかったが、7年経った今でもこの言葉は自分の中に確かに存在している。自分の辞書の例文、見出しを張れるほどに胸に刻んでいる。
学校、バンド、仕事、遊び、あらゆる面で必ず誰かが救ってくれて、支えてくれて、今の自分がある。
人は一人では行きていけないと真に思う的な話を、酔ってついしてしまった。
そこから彼も、誰にも打ち明けていない事を話してくれたり、よく行くお店を教えてくれて、コミュ障な自分を受け入れてくれる人々と仲良くなったり。
嫌なこともその時は忘れて、年甲斐もなく久しぶりのオールは本当に楽しい時間だった。
後輩と仲がいいのは、僕と彼の波長があうからだと思っていたが、本当は彼の波長が僕の波長に合わせてくれたんただと思う。
合わしてくれない人とは仲良くなれないとか、そういった事を言いたいんじゃ無い。
合わせてくれた彼が、「一緒にいてて楽」だと、年上に躊躇いなく言ってくれる。それがただ幸せで、またこうやって、誰かに救われている事を実感できる。
残りの二日は、コミュ障だから一人で、1日目の余韻を感じながら過ごそうと思う。
気は確かか?
なんやかんや就職して半年以上が経った。
これだけの月日があると、毎日毎日面白い話や不思議な話で満たされているが、そのほとんどが記憶のインプットから外れてしまうのがアスペの悲しい性である。
そんな中でも、ここ数年先は忘れないであろう衝撃的な事件が起きた。
日々の中で訪れる見送り降園の時間。
保護者が迎えに来て雑談して、園児にバイバイするアレ。
話し下手な僕は、毎日その日の出来事を振り絞って保護者と会話をするのだが、ある保護者からこんな質問をされた。
「羽生結弦くんに似てるって言われたことありませんか?」
その瞬間僕の脳はパニックを起こした。
あの氷上の貴公子を、お母さんはどう僕に重ね合わせているのか。
何故重ね合わせられるのか。
そのお母さんもお喋りなタイプでは無いため、何かしら勇気を振り絞って聞いてくれたことは、雰囲気や様子を見て即座に察することが出来た。
そんな振り絞った勇気に対して、何か応えなければと、一生懸命に振り絞って口から出た答えが
「いろんな人からぶっ叩かれますよ(笑)」
その瞬間やってしまったという罪悪感に心は満たされた。
我が子を預けられている保育者として、人として、超えてはいけないラインの答えを出してしまった。
その罪悪感から、この出来事は僕の心の枷としてしばらく記憶に残った。
そこからしばらくして、昼食を職員室で頂いている時、普段あまり話さないリーダー格の先生が僕を見つめながらこう言った。
「羽生結弦くんに似てるよね」
またか。
prince of Iceの名に対して落胆しているような表現は非常にいたたまれないが、いざ自分が釣り合わない人間と似ていると二度も言われると、喜びすら感じなくなる。
喜びは確かに無い。
たが、二度も羽生結弦似と言われたその時、疑いは疑心暗鬼に変わる。
自分は本当に似ているのでは無いだろうか。
否定している自分の心が間違っているのではないだろうか。
思えば大学時代は「口元が二宮くんに似てるね」と言われた事もある。
可能性は0では無いのかもしれない。
自分の気持ちに嘘はつけなくなる。
そして、その疑心暗鬼を確実なものにしたいという人間の業は愚かにも溢れてくる。
この気持ちを自分の中で確かなものにしたい。
先日、旧友と久しぶりに呑みに行った際に、思いを確かなものにすべく彼に問いた
「羽生結弦に似ているって言われたんやけど、どの辺が似てる?」
彼は表情筋を一切動かす事なくこう行った。
「呑み過ぎてる?気は確かか?」