耳をすましたら死ぬ
月に一度、実家にフラっと帰る。
今日もまた用事があり実家に帰ると、母がテレビを見ていた。
「耳をすませば」
これを1人平然とした顔で見ている母に畏怖した。
なぜなら僕はこの映画に対して、思春期時に植え付けられた劣悪なイメージが今では化け物のような姿まで肥大化してしまい、1人で見ようものならその瞬間青春の権化に喰い殺されるのではないだろうかと恐怖心を抱いているからである。
調べたところ、耳をすませばを見た大人の7割が「耳すま症候群」に悩まされるらしい。
中学生のピュアな恋愛を、大人になった今ではもう経験できないことから、憂鬱な気分に苛まれるという。
いやまて。
それを踏まえると、大人になっても恋愛ができない人間の気持ちはどうなる。
そこに待つのは精神の自閉か、はたまた感情の死か。
そういった人達の、どうにも昇華のしようがない言葉を多感であった時期に鵜呑みにしてしまったせいで、まともにこの映画を観れない。もう12年も。
母が映画を見る傍らで雑炊をすすりながら映画をチラチラ見ているが、いや待て、以外と見れるかもしれない。
少し思うが、だんだん気付く。
見れる見れないは、もう映画の本質がどうこうという問題ではない。
大人になった自分に思春期の時の自分が、見てはいけないと叫び抑止してくる。
抗うこともできず、用もないのにとりあえずトイレに入る。
セラミックの便座が冷たい。
その瞬間、過去に何度か耳をすまそうとした記憶が蘇る。
しかしその度に僕は青春の権化に立ち向かう勇気を示すことができなかった。
僕は死ぬまでこの青春のラスボスに打ち勝てず、正規ルートのクリア画面を目の当たりにできないのだろう。
裏ルートの「猫の恩返し」は何度もクリアしているのに。